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第二次世界大戦の古い画像を見た。
 昨日は第二次世界大戦のDVD(52分)を見たのでサーチしたら「画像」が貯めてあったので行ってみたら、これがテンコ盛りで、とても一日では見終えることが出来ないと思ったのだが、ロボットは何でもかんでも世界中から収集して来ているので「重複」している画像がとても多かった。皆さんコピペして御自分のブログに使用していると窺わせられるものだ。中には「この画像を使用すると料金が発生します」と脅すサイトもあったが、「重複画像」ならそんなことも無いだろうと考え、幾つか自分のリムバブル・ディスクにコピペして来た。いずれ機会があれば少しずつ使わせて貰うつもりだ。

 ここである。 ↓

第二次世界大戦の画像検索

 あと家に残っているDVDは第二次世界大戦ものが3本、渥美清のモノクロTVドラマ『泣いてたまるか』が4本くらいだ。これまで見て来た映画を含めて、ざっと見ると『第二次世界大戦』前後のDVDが多いようなので、家のPC(兼DVDプレイヤー)が壊れる直前にはその関連のDVDをかなり意識して収集(という程ではないが)していたように思われる。

 CDならもっとあるがCDまで持ち込む気にはなれないので、また折を見てデンデンタウンにDVDを物色に行きたいと思っている。
きのこ雲
玉音放送
25b2916b5c49db617f52fa5ea48efee716日本兵
女性を丸刈り
行軍

cf.IDAHO.
| 昔ばなし | 16:14 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
日本へ留学して来た中国人たち。
 今日は中国の【文化大革命】前後の話を書こうと思って、取敢えず【大航海舵手】(←タイトルは多分間違っていないと思うのだが、検索にかかって来ないのだから私には何とも言えない。)という当時【北京放送局・日本語版】で冒頭使われていた曲をアップしようかと考えたのだが、グーグルでもモジラでも、YouTubeでもそれは発見出来なかったから、公的には最早削除されてしまったのかも知れない。これは大海へ船出する中国を指導する偉大なる舵取りとして毛沢東を礼賛する、非常に景気のいい?曲だったのである。

 私の高3のときの友人に中国かぶれの男がいて、彼は学校にも【毛沢東語録】という赤い表紙のハンドブックを持参して来ていて(無論日本語訳だった)、私も勧められてそれを買ったが興味が沸かなくてあまり読まなかった。
 それでも私は【ニッポンの同志の皆さんこんばんわ!こちらはペキン!放送局です!♪】で始まる日本向けラジオ放送を殆ど毎晩のように聞くことになったのである。

 元々は【資本主義の道を歩む一握りの実権派】(←後には【走資派】と呼ばれたその代表が劉少奇とされた。彼は《上海コンミューン》など労働者を組織した云わば都市型の革命家で、毛沢東に次ぐ中国共産党NO.2の存在だったが、結局は党内闘争に敗れて粛清されてしまった。)対【農村に基盤を置く毛沢東派】との権力闘争が全国規模に拡大したものがあの【文化大革命】だったのである。その後粛清の嵐は党内外に吹き渡り、密告は奨励され、毛沢東の片腕だった【林彪】元帥は身の危険を感じてソ連に亡命しようとしたところを撃墜されたし、【批林批孔】とか【四人組】とか様々な党内対立を経て今の中国はあるのである。但し、ここに【批林批孔】までは文革真っ最中の時期の話だが、【四人組】となるとこれはもう既に文革否定の話になって来る。

 私がなぜ突如として文革の話を始めたのかというと、私が書きたかったのは日本へ留学もしくは働きに来ていた中国人たちとの短い交流についてだというのがそもそもの動機であり、その前段として始めたのだが、長くなり過ぎたので続きは後日に譲ることとするかも知れない。他には日系ブラジル人たちとの交流もあったからそれも書きたいからまたいずれ書くことになると思う。

 東京を出てから愛知県にやって来た私は、行く先々の職場で彼ら海外からの出稼ぎ労働者たちと出会ったのである。元より彼らはお金が欲しくて来日しているわけであって、そのために必要となれば日本人とも親しくしてもいいかなというスタンスなので、彼らはこちらが仕掛けなければ決して自ら心を開くことはなかったように思う。
 それは豊橋技術科学大学(国立)へ留学して来た中国人たちにしても同じことだった。

 私がこれまでに齧った外国語は、英語、ドイツ語、韓国語、中国語、ポルトガル語くらいのものだろう。これらを充分学習し得たのなら私も「マルチ・リンガル」の一員となっていたかも知れないが、実際にはどれもこれも中途半端に終わってしまったため、現状は何の役にも立っていないのである。

 「ドイツ語を学びたい」とSigridに書いたら「難しいと言われているドイツ語をよく勉強する気になりましたね♪」と非常に喜んでくれたのだが、彼女との文通が途絶えてからはそれっきりになってしまったから、私の能力は日常会話も覚束ないレヴェルに終わった。
 ハングルは東京にいた時分、二三の友人らと独学で勉強を始めた。まだNHKのハングル講座が始まる前の話である。講座が始まってからはテレビもラジオも利用したのだが、ラジオはテンポが速過ぎて付いて行けなかった。

 中国語とポルトガル語は、名古屋周辺の工場には中国人や日系人が大勢いたので、彼らと話すためにこれも独学で学んだ。中国人と一口に言っても、彼らは出身がまちまちで、中国全土はとにかく広いためそれぞれに「合わせる」のには大変苦労した。
 名古屋のパチンコ店には福建(フーチェン)省出身の青年が働いていたが、どこで学んで来たのか日本語の新聞を(読売だった)毎日読んでいた。日本語を読み書き話せる人間だったのである。中国人の平均寿命から割り出したのか、私に「あなたはあと5年から10年で死ぬんだから、悔いの無い生涯を送りなさい」との意見までした。w

 豊橋の技科大には中国からの留学生が10人以上いて、彼らのバイト先で私も働いたから、彼らとはよく話し、彼らの下宿先でしばしば呑み会をした。私が疲れて自分の寮に帰ってしまうと携帯でお呼びがかかった。私は翌朝仕事なのにタクシーで参加したりもした。
 彼らが麻雀をしたいと言うと、私は古道具屋から買って来て彼らに渡した。DVDが見たいと言えば、近くのスーパーで『俺たちに明日は無い』とかを買って来て与えた。(但しこれは受けなくて、みんな寝てしまったということだった。)結構貢いでいたのである。w
 彼らの中にはアメリカ留学から帰って来て今度は日本に留学した男もいた。彼は日本語も多少話せたが、英語はペラペラだった。ビール祭りが有名だというチンタオ出身の彼は、私を是非その祭りに招待したいと言ってくれたが、それは私の方の事情で実現しなかった。

 彼らの中のリーダーは彼ではなく、北方出身の気さくで手の早い!面白い男だった。なんでも彼は地元では共産党の末端のリーダーだったそうで、『王偉(ワン・ウェイ)』という名の彼に逆らう人間はあそこには一人もいなかったように思う。機転が利き、カラオケに行けば会計役だったし、いや下宿でも金のやり取りは彼が大方仕切っていた。ビリヤードは一番上手だったし、いったい本土ではどういう暮らしをしているのかと私は思った。
 彼が「上海人は中国では嫌われている」と上海人当人の前で冗談を言っても誰も咎め立てしなかったくらい、彼の統率力?は秀でていた。上海人云々は言わば『ヴェニスの商人』的な話で、利に聡く計算高いのが上海人の性向だという前提があってのきついジョークだったようだ。
 話はまだまだ尽きないが今日のところはワンウェイから教わった言葉を描いた葉書絵を掲載して、この辺で止めておく。w 

| 昔ばなし | 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
坂本九と日航機事故。
 今日は坂本九の『上を向いて歩こう』♪を取り上げたいと思って検索したら、坂本九Official Web Siteというところがあって驚いた。誰が運営しているのだろうか?と思ったら写真の下に小さく以下の記述があった。 ↓

※記載した記録は、株式会社マナセプロダクションおよびファンクラブで保存している資料から抜粋し掲載したもので、全記録ではありません。また、コンサート等の曲目、プログラムは一部、台本からリストアップしていますので、実際のステージとは異なる場合があります。[
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Sukiyaki - 上を向いて歩こう (Kyū Sakamoto, 坂本 九) ・・このシングルのB面『あの娘の名前はなんてんかな?』という曲も私は知っている。「・・・手当たり次第に名前を呼べば、まぐれ当たりで可愛い返事《はい、あなたとならばどこまでも》って言うかどうか、わっからないけど呼んでやれ♪」といったような歌詞だった。w



 この歌は《スキヤキソング》としてアメリカで紹介されヒットした。しかし英語バージョンの歌詞は「東京で食べたスキヤキの味は忘れられない」とかいったふざけた内容なので、私は取り上げない。







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]
 九ちゃんには私は格別の思い出がある。
 九ちゃんが亡くなったのは今から29年前の日本航空123便墜落事故によってであるが、私は墜落直後、遥か遠方に立ち上る濛々たる白煙を目撃しているのである。

 私は当時36歳で東京でごろごろしていた。その年の初夏、高円寺の友人宅にあった『日刊アルバイトニュース』をチラチラ読んでいたら『八ヶ岳で高原野菜を作る』という長野県川上村からの募集が幾つも載っていた。農協全体で募集をかけていたのだろうか。同棲中の友人も(自分は全然行く気がないにも関わらず!)「このクソ暑い東京でブラブラしていてもしょうがないだろ?行け行け!」と無責任にも熱心に勧めるので、取敢えず電話だけはしてみようかと思って電話してみたところ、そこで私が発した「超人的な仕事は出来ませんが、普通の人間がやる仕事なら大丈夫だと思います」の一言が、幸か不幸か電話に出た先方の奥さんにひどく気に入られて、私は即採用の運びとなってしまったのである。36にもなって農業が初めてだという私を気遣って、奥さんは「大丈夫ですか?出来ますか?」と念を入れて訊いてくれたのである。

 私はあくまで短期のアルバイトとして川上村へ行ったのであるが、結局成り行きで一人最後まで残ってしまった。
 「来年も是非頼むよw」とご主人にも(単なる外交辞令だったかも知れないが)誘われたがそれは無理だと断った。地面を相手の農作業は私には過酷過ぎたからである。秋には私は脚も腰もボロボロだった。
 ちなみにそのご主人というのは私と同じ36歳だった!(笑)奥さんとは冬のアルバイトで(横浜だったか)スケートリンクの製氷作業に出かけた際知り合い、それがロマンスに発展して川上村に連れ帰ってしまったという話だった。川上村は地面が凍りつく冬季は農作業が出来ないので、都会にアルバイトに行くか、それともパチンコ・スロットに日参するくらいしかすることがないということだった。
 川上村はレタスの産地である。ヴェトナム戦争の頃から『米軍特需』があり当時は田んぼを潰してレタス畑に切り替えたという話だった。私が行ったときも川沿いの畑は通称『田んぼ』だった。全国からのレタス需要を村で一手に引き受けていたが、私が行った頃は他にもレタス生産に力を入れる地域も続出していて、村の人たちは「生産過剰になる」と皆迷惑顔だった。

 アルバイトには先客が二人いた。一人は30歳前後だったろうか、東京の某劇団員で、大型バイクを駆って雪解け後の4月?当初から働いていた。農協の事前説明会にも出席したという彼が当然最後の収穫が終わるまで居残るものだと私たちは考えていたが、彼は秋口に体調を崩し一番先に帰ってしまった。
 もう一人は確か茅ヶ崎から来ていた青年で、一緒に来ていた彼の弟が仕事が務まらず先に帰ってしまったため、私が後釜に呼ばれた次第である。この青年は創価学会の熱心な信者で、なぜか私は古株の劇団員よりは彼の方と気が合って、夜などは一緒に奥さんの悪口を言ったりしていた。奥さんにシンパシーを感じていたらしい劇団員はそれが気に食わなかったようだ。
 奥さんというのはあくまで余所から川上へ嫁入りして来た人であるから、謂わば「村人よりも村人的な」人だった。村独特の風土に溶け込み普通の村人として認められる迄には、人並みならぬ努力が必要とされたのだろう。
 この家にはお婆さんは既におられなくて、腰の曲がったお爺さんが実権を息子に譲った後もまだ、元気に釜を使ってレタスを収穫したりしていた。アルバイトの仕事は根から切り離され白い汁液を染み出している個々のレタスを等級別に選り分け箱詰めしトラックに積み込むというのがメインだった。レタスを地面から一つ一つ拾い上げるこの仕事が結構辛いのである。最初のうち私はついしゃがみこんで膝を折り腰を下ろして「腰が落ちてるぞ」とご主人に叱られたものである。作業中はすわってはいけないのである。
 
 朝の収穫と出荷が終わると、今度は朝食で、ゆっくり昼寝した後昼飯を食べ、アルバイトたちは畑の草毟りなどをする。他所の農家が忙しいときには「応援」に出掛けることもあった。作物はメインのレタスだけではなく、大根、キャベツ、漬物用の菜っ葉・・・などがあった。夕飯前には次に植えつけるためのレタスのハウス栽培の準備もあって、時間給だったのかどうだったのか忘れたが、辺りが薄暗くなるまで仕事はあった。ご主人はあまり遅くまで我々を働かせることには不同意だったようだが、とにかく「川上村の一員」として認められたい一心でやって来た奥さんは「夜業」が好きで、旦那さんに「朝までやってるつもりか!」とどやしつけられることもままあった。

 そんな或る日の夕方である。あの川は千曲川の上流だったろうか、手足を洗い終えた私たちは、橋の上から流れの遥か上流を見ていて、その山々の上空に、真っ白く輝く白雲を発見したのである。創価学会の青年は「これは異常ですよ。きっと何か不吉なことが起きますよ」と予言したが、その『不吉なこと』は既に起きた後だった。ジャンボ機が墜落していたのだ。
 私たちは作業をしていたので気が付かなかったが、操縦不能のジャンボ機は川上村上空も何度か彷徨っていたらしく、村民からも多くの目撃証言がメディアに寄せられた。

 御巣鷹山への墜落事故を起こした日航123便には乗員乗客524人が乗っていてその大半は亡くなられてしまったが、中に数人助かった人がいる筈である。このジャンボ機は飛行前に尻餅事故を起こしていて、その事後措置を怠ったためこの飛行中尾翼部分が大きく破損して吹き飛び、その結果全ての油圧系統が壊れて操縦不能に陥ったとされている。詳しい正確な情報はウィキペディアを参照して頂きたい。私の知っている有名人としては九ちゃんの他に当時の阪神球団社長も乗っていて亡くなられた。操縦不能の機体は『ダッチロール』というあっちふらふらこっちふらふらの状態を繰り返し、乱高下して最後は御巣鷹山に激突してしまったわけである。乗客の中には「神様、どうか助けてください」との走り書きのメモを残した方もいる。ダッチロールは暫く流行語になっていた。(合掌)
| 昔ばなし | 13:34 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
人物4C.
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| 昔ばなし | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
04persons.
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人物2B.
2B
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| 昔ばなし | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
ふと思い出すこと。


 もう30年以上前の話になるが、私は某TBSのTV局で大道具のアルバイトをしたことがあることは以前他のblogに書いた。と言っても局側は直接スタッフを雇うわけではなく、当時で確か十数社の関連会社(大道具、小道具、持ち道具、植木屋さんetc.)が出入りしていた筈で、私はそのうちの一社に雇われていたわけである。そこは夜の仕事が殆どで、それも基本給は安いから残業代(つまりは待機時間)で稼ぐシステムだったことも以前書いた。
 夕方局入りして事務所でタイムカードを押し、あとは指定されたスタジオが空くまでの時間を詰め所で雑談したり、将棋指したり、ロビーへ出てテレビを見たり、腹が空けば外へ出てケンタッキーフライドチキンを買ったりして過ごすわけである。「局弁」という折り詰弁当も出るがそれだけでは足りなかった。稀に夕方すぐ仕事にかかることもあったが、大抵は深夜から明け方になってようやくガランとしたスタジオで仕事が始まるのだった。始まれば作業は2〜3時間で終わる。終わりが始発電車の出る前なら製作の東通が手配してくれるハイヤーに乗り合わせてのご帰還である。
 この仕事の余禄はなんと言っても数多くの芸能人を直に目撃出来たことだ♪
 『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』のメンバーはみんな見た。山口百恵がTBS会館での新人オーディションで夏木まりに優勝を攫われたときも、局を抜け出して客席から見ていた。ラジオの放送局へ無断で探検に行ったこともあって、今もあるのかどうか、日比谷公園近くの「日比谷スタジオ」という大きな貸しスタジオビルでの仕事では、なんとあのアグネス・チャンと同じエレベーターに乗ったこともある。全くの偶然だったから「やった!」ってか、私の方は東京12チャンネルの仕事で林与一の『若様侍捕物帳』か新珠三千代の『細うで繁盛記』かのどちらかだったろうが、アグネスの方は他局の『子供の日』用の音楽特番の撮りがあったのである。新珠さんで思い出すのはあれは打ち上げのときだったか、赤坂の有名寿司店の「茶巾寿司」を全員に差し入れてくれたことで「看板女優は違うなあ!」と皆口々に言っていた。
 あと日比谷スタジオでは浅丘ルリ子ともスタジオの玄関で会った。我々はスタジオの1F受付でたむろして日テレの撮りが終わるのを待っていた。深夜のことである。そこへスタジオの扉が開いて彼女が一人で出て来た。彼女は我々のことなど眼中にないかのようにスタスタ玄関のドアへ向かったが、我々はみんなで「お疲れさまでした!」と声をかけた。すると彼女はドアの手前でくるりと振り返って「お疲れさま♪」と笑顔で返して来たのである。あの笑顔は明るく輝いていて華があった。私は暫し茫然自失の状態だったのでありましたとさ。あっそ♪
| 昔ばなし | 06:49 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
落語名作『鼠穴』。
『鼠穴』というのは人情ものの江戸落語である。古典落語と言えば上方落語の翻案ものが多い中この噺は出色で、昔は暮れも押迫った頃によくかけられた演目である。私は故六代目円生で聞いてこれが一番と思っているが、他に円楽一門や立川談志・柳家小三次等今も演(や)る人が結構多いらしい。この噺は人情ものとは言っても全編が実に暗いトーンで覆われていて、主人公は仕舞には「この世には神も仏もないものか」という絶望感に襲われ首を吊るのである。が、首を吊ったところで実はそれまでの展開が夢だったというオチがついて聴衆はほっと安堵し場内は一斉に拍手が巻き起こる。そこで拍手がなければ演者は失敗なのである。この「実は悪い夢だった」というトリックは映画でもしばしば使われる常套手段だが、ひとたび我が国内事情に目をやると、あっちでもこっちでも、凡そ常軌を逸した不祥事や陰惨な事件が毎日これでもかこれでもかと惹起こされていて、しかもこれは「悪夢」などではなく正に我々の現実そのものだから、各々方、くれぐれもお気を確かにしてくだされ。*数日前『なんばラビ』へ行って、ニコンの『クールピクスS10』を買ってしまった。衝動買いである。価格表示は21,800円X→19,800円X→16,800円(3/1-7限り)と三段階になっていたが、前の客(お婆さん)が『上司と相談して』14,800円まで下がったのを見て、私もそうして貰った。2006年のバージョンだから最早可及的速やかに「換金」されるべき宿命の過剰在庫の一つなのだろう。610万画素だから私の410 万画素の昔のクールピクスと大して変らない。ただ目玉がとても大きくて今の流行ではなく、このレンズは回転するから自画像は簡単に撮れて液晶画面も大きい。操作性は似たようなものだろうが、まだ私は慣れていないから扱いにくい。試しに自画像を撮ってPCにアップしたらめちゃ早かった。古いニコンは 19,800円だったからそれより5,000円安く買ったわけである。ムービーの際AFにしておくと動作音が入ってしまうという欠陥は続いている。音声のみの録音も出来る。あと大きな違いはバッテリーが充電式になったことで、私は単三を沢山買って後悔している。一眼レフもビデオカメラも高級機種が多数出ているが、私の使い道と言えばせいぜいblog等に写真やムービーをアップするだけなので、1万円台のデジカメで充分だ。

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 cf.落語のあらすじ 千字寄席『鼠穴』

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特定財源支出『政治主導で見直し』 国民怒り、国交相押す
2008年3月8日 『東京新聞』朝刊

 巨額の道路特定財源が流れ込む国土交通省の天下り法人。世論の強い批判の高まりを受け、国交省の改革本部は七日、二法人の解散を決め、ほかに事業の縮小などを発表した。本部長の冬柴鉄三国交相は「政治主導で見直した」と胸を張ったが、一千数百万−二千万円という役員給与の引き下げや数の見直しはこれから。天下りポストを維持したい官僚の抵抗は今後も予想され、改革はまだ始まったばかりだ。 

 「国会審議で強い批判を受け、新聞やテレビなどでも大きく取り上げられた。私の地元でも大きな反響や怒りに近いものがあった」。冬柴氏は記者会見で、四法人の見直しに踏み切った理由をそう説明した。

 まずやり玉に挙げたのが、約九百五十億円の道路財源などを投じて全国十四カ所に建設した“官営駐車場”を運営する財団法人「駐車場整備推進機構」。

 巨額の税金をつぎ込みながら、昼でもガラガラというところも多い。それでも国交省OBら常勤役員四人を抱え、年収は計六千五百万円に上る。今後は民間に委託し、同機構は来年度までに解散することになった。

 同様に解散が決まった財団法人「海洋架橋・橋梁(きょうりょう)調査会」は、海峡横断プロジェクトに関する調査などを行っている。すでに巨費を投じた東京湾横断道路や明石大橋は、通行量が当初の見込みより大きく割り込み、新たな建設計画のめどは立っていない。それでも調査には多額の金がつぎ込まれてきた。今後は調査を打ち切り、橋梁点検業務は財団法人「道路保全技術センター」に移すことになった。

 その同センターも事業縮小を余儀なくされた。国交省から全国の道路に関するデータベース事業を随意契約で独占受注。三人の常勤役員は全員同省OBで、理事長の年収上限は約千九百五十万円だ。職員の四分の一にあたる六十人は、民間企業からの出向者。民間でもできる業務まで高値で独占受注し、四十一億円もの内部留保(余剰資金)を抱えていた。今後、事業の半分は民間企業に委託することになった。

 海外の道路調査を九千万円余りで請け負いながら、報告書の半分は世界銀行などのデータを引用していた社団法人「国際建設技術協会」には、業務を発注しないことを決めた。ここも常勤役員四人は全員同省OB。理事長は年収一千八百万円と厚遇ぶりが際立っている。

『努力するしかない』

 独立行政法人を除き、道路特定財源を原資とした国の道路整備特別会計から支出を受けていた公益法人は五十法人。支出額は二〇〇六年度で計約六百七十三億円に上る。

 この中には、道路建設に直接関係のない調査・研究業務を行っている法人も多く、冬柴鉄三国交相は「民間に発注することで半減を目指す」と具体的な目標を口にした。

 一方、五十法人には高額の年収が保証されている常勤役員が百七十人在籍。うち百二十八人が国交省OBで占められる。改革本部は「役員数の削減と給与水準の抑制」を方針に掲げたが、具体的な人数や給与額を聞かれると、冬柴氏は「努力するとしか言いようがありません」と歯切れが悪かった。

 また、道路財源から支出を受けなくても、ETC事業で年間収入が百億円を超える財団法人「道路システム高度化推進機構」のように、道路行政に関連した法人はほかにも二十二ある。だが、今回の見直し対象にはなっていない。

 「対象を広げるべきでは」との質問に冬柴氏は「今日で終わりではない」とあいまいに答えただけだった。

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| 昔ばなし | 04:09 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
水戸天狗党♪
  11/23(金)は夜になって「やっぱり寅さんだけは見ておこう」と思い直して飛田東映に行って結局全部見た。あちゃ。
 と言って、見たことがなかったのは『天狗党』だけで、他の2本はこれまで何回も見ている。飛田東映のローテーションは知らないが、間をおいて何回でも同じ映画を掛ける。寒い季節になると、野宿は辛いがドヤに泊まる金も不如意という人も来て混み合いそうなものだが相変わらず空席が目立った。夜になると途中休憩は省略して3本を連続上映したりするので掃除も省略されるから館内はゴミが目立つ。タバコはあちこちで吸ってくれるから空気は汚く、臭い。関東方面では50歳以上のカップルには一人千円の入場料のロードショーがあるのだと、先日知り合いが自慢していた。大阪にも月一度、映画の日に一律千円のことがあるが、このサービスは平日でも同じということらしい。私も飛田以外にどこか開拓しようかな?ってか、そんなに映画にどっぷり浸かってどうする??ぁそ。
 私ってば3本立てが500円で見られるという飛田以外の映画館なんて殆ど行かないからね。あちゃ。そう言えば最近試写会はとんとご無沙汰だね。応募してないし、誰も券くれないし・・泣。試写会って並ばないでも開場直後に行けば結構いい席が空いてたりしてラッキーって感じなんだけど、稀に満員で入場を断られることもあるらしい。私はそんな経験ないけどね。あっそ。

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 1.天狗党

 これは大映映画の昭和44年芸術祭参加作品。山本薩夫監督、主演仲代達也。
 時代を幕末にとって、こういう血生臭い社会派映画(?)が撮られたというのも1969年という時代が反映されているということか。
 天狗党というのは水戸藩尊皇攘夷派の実在した言わば撥ねっ返り分子の一派で、一時は百姓・町民を巻き込んでの総勢1,000名以上の挙兵は一種社会運動的体裁も帯びるが、やがては水戸藩から邪魔者扱いされ、幕府徳川慶喜からは『朝敵』とされ討伐の対象とされ滅びる。投降した残党らの、那珂湊での三百数十名に及ぶ斬首は有名。水戸というところは徳川御三家の一つだが近親憎悪的(?)内部対立が激しく外部と闘う以前に内部抗争で消耗してしまった印象が強い。

cf.水戸学・水戸幕末騒乱(水戸天狗党の乱)

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2.荒ぶる魂たち

 前の週に見た『新・仁義の墓場』と同じ三池崇史監督作品である。あれよりはマシだったが、私はこういう映画は全然いいと思わないんだけど、かかる単純暴力物が持て囃される風潮も確かにある。私に言わせれば北野武作品も同列の部類で、私は彼の監督としての才能など全然認めていない。フランスやイタリアであんな素人映画を持ち上げるのは、彼の国々は既に斜陽で傾きかかっていて、活力も何もないからだろうと決め付けてかかっているのである。笑。
 例えば、問答無用でいきなり銃で撃ち殺すといった映画の一シーンがそれほど衝撃的なのだろうか?
 『事実は小説より奇なり』というが、ヴェトナムではかつて南政府側高官(?)が捕縛した解放戦線容疑者の頭をいきなり拳銃で撃ち抜く映像が世界に向けて発信されたこともあって私にはこちらの現実の方が比較にならない程衝撃だったのである。
 欧米で評価されると日本でも評価されるというのは明治維新以来の(いやもっと以前からの?)わが国の慣行ではあるが・・。

『奴は敵だ。敵は殺せ』(埴谷 雄高)

 敵を殺すと決めてかかっている側にあっては問答無用の射殺など別段珍しくはないだろう。むしろ殺す側と殺される側が最後に対峙する場面でああだこうだ能書きを述べ合うことの方が遥かに不自然かつ不合理で『説明的』過ぎるのである。そんなのはテレビの2時間ドラマの愚劣な世界だ。

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3.男はつらいよ『寅次郎恋愛塾』(1985年)

 シリーズ第35作。マドンナ役は樋口可南子。
 寅さんは最近一つずつ遡ってここでは上映されているが、12月はどうなるかな。w

 寅さん映画では人の死とか犯罪とかいった人生の暗い側面を表立って扱うことはまずないが、この作品ではその禁を破っている。終わり方も正月のテキヤ稼業=いわゆるタンカバイを持って来ていなかったりで、ちょっと異色かも知れない。ご当地も二つある♪
 そろそろ『釣りバカ』もやって欲しいなあ。笑。『釣りバカ』は漫画の原作を読んでいる人は漫画の方が良かったりするらしいが、私は原作は殆ど知らない。
 『男はつらいよ』は元々テレビドラマが出発点にあって、何回まであったか知らないが恐らく数回で終わり、沖縄に渡った寅がハブに咬まれて最期を迎えるのである。
 これが映画へ移植されて日本の盆と正月には欠かせない国民的行事(?)になってしまった。尤も監督自身の希望としては途中何回も『これで最後』としたかったらしいが、松竹の圧力に負けたのか、結局渥美清本人の死まで計48作も作り続けたわけである。

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天狗党 - goo 映画天狗党 - goo 映画
荒ぶる魂たち(2001) - goo 映画荒ぶる魂たち(2001) - goo 映画
男はつらいよ 寅次郎恋愛塾(1985) - goo 映画男はつらいよ 寅次郎恋愛塾(1985) - goo 映画
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LindowsOS4.0??
JUGEMテーマ:インターネット

Lindows OS 4.0 hukkatsu?! Haah? Demo Nihongo damettyane,asso.w←と、ここまでは夕べリンドウズで書いた。相変わらず日本語が使えない。リンドウズというのは数あるLinux系の一つで、なぜそんなOSがうちにあるかと言うと、これは今のYBBを契約したときからあるのです。最近はYahooも街頭勧誘は辞めてしまったようだけど、三年前は盛んだったんだね。私は当時デンデンタウンを歩いていてそれに引っ掛かって(?)しまったのです。あちゃ。YahooBBとLivedoorとあと中古パソコンを回収している会社のコラボで、街頭の勧誘はそのパソコン業者で働くアルバイト(?)の仕事だった。ヤフーはBB加入獲得が目的でこれがメインなのはいいとして、ライブドアはサイトへの誘導が目的だったんだろうね。もっち、ホリエモンがまだ健在だった頃の話で、YBBに契約すれば電話回線無しでインターネットが出来て、パソコンのない人には中古PC一式をセットでプレゼントする(←但しこれはYBBを最低1年間は解約しないというのが条件だった)というものだった。それでそのパソコンには予めLindows4.0というOSが組み込まれていて、回線さえあれば電源を入れたとき自動的にライブドアのHPに繋がってしまうから、YBBとの契約発効を待たないでもすぐにネットサーフィン出来たのです♪るんるん。が、しかし、このOSには致命的な欠陥があって、それは日本語入力がままならなかったのです!!あちゃ〜っ!!私はライブドアの掲示板を熟読しましたが概ねそこはリンドウズを酷評する場と化していて、結局私はその貰ったPCでネットをするのは諦めて、お絵描き専用だったノートパソコンでwebを始めたのですね。ぁそ。*その後リンドウズはリンスパイアーとかへ名称変更して、あとどうなったのか知らなかったけど、昨日冷やかしで行ってみたらリンドウズは6.0まで更改されていたけど、バージョンアップは有料なので止めておきます。wてか、埃を被っていたパソコンが作動したのが第一の不思議。それが何回かトライするうちにライブドアへ接続出来たのが第二の不思議でした。捨てないで良かった〜ってか、貰ってすぐソフマップで調べたら『査定不可』だったから、元々が企業とかで要らなくなった旧式のPCを廃物利用したPCだったんだね。笑。

パソコンが壊れて、修理に出す必要がある。あっちゃ。動力部かな?そこだけならいいんだけど・・。まだ四年しか使ってないっちゅうのっ!PCのない生活にも限界(?)があって、昨日あたりからボチボチ、ネット喫茶とか往き始めてしまいました。ぁそ。開店サービスで最初の30分は10円のとことか、某ヤマダデンキの1FにあるYahooのY-cafeなんて1H無料だよ♪でもそこは1時間で自動的に電源が落ちてしまって、それでおしまいなのだ。あっそ。笑。
| 昔ばなし | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ